「さあ行くぞ。馬の腹の筋が切れるほどに飛ばすからな。」
馬よりも猛る紅顔を前に思わずくすりと笑う。最早馬上の人となった牛若は「何を笑うんだ?」とこちらを怪訝に見下ろす。「何でもないのよ。」と言いつつも、彼のさきほどの口調はすでにして合戦に赴く大将が兵卒に命令するかのようだった。そうか、ならばはやく乗れ、手を差し出し促してくる男の姿は、もう相手構わず愛嬌を振り撒く童ではないのだ。
「え。」
「何を躊躇うんだ、俺の手綱さばきが心配か。何度も落馬して肝を冷やされたのはこっちのほうだが。」
馬上から差し出された手が、少し行くあても無く虚しくさ迷ったように見えた。
「……私も、連れていってくれるの。」
「奥州の地は嫌いか。」
(そういう、意味じゃない。)女心のわからない武骨者、私は思う先をそっと見上げる。少なくとも奥州まではこの男の家来として、例え緊張が続かずふと睡魔の虜となって馬から転げ落ちようとも、徒歩でも何でも着いて行く覚悟だった。牛若には、人を慴伏せしめるおのずからなる不思議な力があるように感じる。妾腹、と罵倒される運命にあるかもしれないというのに。そして私が乗る者無しになった馬の口を押さえているのも、その顛末による。
「なんだ、そんなに俺が信用ならないか。」
掴もうとした掌は、痺れを切らせたように手綱に戻ってしまう。ああと思いがけず名残惜しむように呟くと、その声色をなぞるように「こっちの台詞だ」と返ってくる。(意味が、わからない。)大津の浜でそうやって悶々とやりとりを続けているうち夕暮れが迫ってくる。
「勢多の唐橋を越えれば鏡の宿、せめてそこに着くまで内輪の揉めごとはよしてくれませんか。」
吉次さんの声になんとなく辟易として、私は再び自分の金覆輪の馬にまたがった。牛若の広くなった肩を見つめながら、常盤どのと長成どのに拾われた自分の運命を思い出す。(私は高貴な血筋でもなければ美しくもない。)私に自分の生涯を呪うほのことは無いし、むしろ誇れることばかり。大切に、乳母兄弟のように育ててくれた。やんちゃをするにも物を壊すにも行動を共にすれば、神妙に長成どのに詫びるのも同じ。チャンバラもしたし、殴りあいの喧嘩もした。けれど、鞍馬に出向いて帰ってきた牛若は、今はもう。
足手纏いね、私。涙もこみあげてくる思いがすれば、夕陽もそれに乗じるかのように眩しく目を突く。真心露のあの掌は逞しかった。私の掌はいつまでも何も掴めず小さいままなのに。振り替えれば数え年で私も彼も十六になった。元服、という言葉が浮かぶ。烏帽子親は吉次さんかしら、と思う隙間にふいに牛若がこちらを振り返った。その後ろには燦然と夕陽が映えていて、あああれは大人の色だ、この先はどんな運命だろうか、意識半ばにそう思った。