考えてみれば、自分の人生は女という女に恵まれているようなものではなかった。目の前で繰り広げられる井戸端会議のような輪に思うように入れず、九郎はぼんやりとそんなことを思った。兄頼朝の奥方の圧倒的な雰囲気にはひたすら平伏する思いであったし、乳母はどこまでも乳母という存在でしかなかった。しかし普通の人間として、自分は女というものに対して単純に冷淡ではなかったと九郎は反芻する。しかしまだ齢の若い彼の経過してきた人生において、「女」という存在はただただ曖昧な輪郭を広げて九郎の横を通り過ぎた。ふらりと往来へ飛び出したところで、出会う商人の女もあるいは長髪を黒々と生やした行列も、彼の異性への関心を呼び起こすには不思議と無縁であった。
 宇治川で初めて望美と出会ったとき、美しいという印象を受けた。それから彼女の渡殿を歩いていく後ろ姿、困り果てた横顔、緊張がふいにほどけてみせる笑顔、彼女の一挙一動をかいま見るたびに同じ印象を受けるようになった。彼女とすれ違う度に後ろ髪をひかれる思いで何か話題をてきとうに取り繕って話そうとするが、そういう時に限って自分はなぜか吃音者のように言う言葉に詰まってしまい、彼女はそのたびに怪訝そうに頭を傾げ、「変な九郎さん」と言ってその場を後にしてしまう。彼女と話題に花が咲くのはいつでも、これからの源氏が赴くべきところ、戦の布陣、平氏の動向、そういったいわゆる、本来「女」という眷属が関わるには少し血生々しいようなことであった。結局彼はそれまで、源氏の御曹司という立場の一部に付着したまま望美と接していた。
 彼女が他愛もない話で一喜一憂するとき、九郎はそれを近くでみていながら妙に不安な心持ちに襲われる思いだった。彼の本質はどこまでも生真面目であり、また寡黙な師へ募る憧憬と、ほとんど初めて対峙する生粋の異性という存在への躊躇いとが、そういった誰もが口を挟めるような会話から彼を遠ざけていた。九郎の表情が説明のつかない懸念で曇るとき、いつも誰よりも先にその異変に敏感に気づくのは皮肉なことに、望美だった。
「九郎さん?」
 耳障りのいい望美の声。九郎はその自分だけに向けられた一言にむけて、何か、何でもいいから言葉を返そうとするが、不思議なことに喉に魚の骨でも刺さったかのように、開いた口からは何の言葉も出てこようとはしなかった。まるで九郎の煩悶一部始終を知るかのように、弁慶が唇をゆがめるのが分かった。墨染めの袖で口を覆い、あたかも愉悦を悟られないようにする弁慶に、九郎は少し、かっとなる。弁慶もヒノエも譲も景時も、自分を除く八葉の誰もが九郎には望美の存在を屁にも思わない手だれのように見えた。その中で1人、源氏の御曹司として色気というものに当てられることもなく育ってきた身がとても小さく幼く、立つ瀬のない存在のように感じられた。
 それはもとはと言えば、女である望美とどう接すればいいかという、些細な葛藤であった。彼女という存在は、九郎の中で途方も無く異様だった。彼は彼の中のくだらない神経がときおり、興奮してしまうのを知っている。それは大変生理的で自然なことだということも、元服を済ませたころに乳母から教わっている。
 酒に神経を愉快にさせられ、行き当たりの女と行為を交わしたことは幾度かあった。坂東武者の種をその身に宿らせるために皆必死な女たちだったため、おそろしいほど素直に、あるいは容易く彼女たちは九郎の前で股を開いた。行為を終えて冷たくなる身体を暖めようとする女を九郎は幾度となく鬱陶しく思った記憶がある。本来女というものは男に縋らなければ、稚児をその身に授からなければ、高貴な血筋でもない限り地位すら確立できないのだ。ゆえに九郎にとって望美はやはり、どこまでも特異なもののように感ぜられた。たとい酔いに支配されようとも、彼は望美を彼の本能の赴くままに汚すことは自分の中の何かが許さないとすら感じた。
 木曽殿の奥方である巴御前は、自ら木曽殿と背中を合わせて戦う戦の神のような猛々しさをもっていたという。まるで望美のようだ。九郎は弁慶と談笑する望美の、その白い細い腕をじっと見つめて思った。とても華奢な腕。彼女はどこまでも九郎の中で神々しく清らかで猛々しい。白濁とした類の興奮を覚えることすら厚かましく、おそらくは神罰に値する感情なのだ。

 これから待ち構える受難は、それではおそらくその神罰とやらなのかもしれない。