しとしとと柔らかな雨が降り積もる。
 庭の緑がその絹のような雨に纏われて鮮やかな色を呈している。朽ち落ちた紫陽花の花は溶け、過ぎようとする季節と共に埋もれていったようだった。じとりと汗ばむ身体を手で扇ぎながら、心なしか暑さで湿った半紙の上に筆を置く。文字の端から滲んで溶けていきそうな気配さえする。私はしばらく黙々と文字をしたためていたが、とてもたまらなくなって筆を置いた。
 燈台の油ももうつきかける、夜半。伽羅御所はたいへんひっそりと静まりかえっていて、耳をすませば対の北の母屋から秀衡さまのいびきが聞こえてきてもおかしくないほどだ。私は今は安息の淵で眠る秀衡さまと、その人のするおおらかないびきとを思って笑った。
 庭ですやすやと眠る金を起こさないよう、私は静かに自分の部屋を出た。燈台の火の尽きる前に油を変えなくては、文も思うように書けない。もうすぐ会えるとわかっていても、日に日に思いばかりが募って仕方なかった私は、就寝前に文を書くことを習慣としていた。北の対へと抜ける渡殿を忍び足で歩いていると、灯りのまだついている部屋から「誰だ」と一喝に似た言葉が響いた。私が驚いて足とめたその部屋は、泰衡さまがいつも就寝なされるときに使う部屋だった。
 泰衡さまはつい今しがた帰ってきたかのような出で立ちだった。
「泰衡さま」
「こんな時間に、どうした」
 泰衡さまの手には一つの書簡がおさまっていた。こちら側にすこしめくれて見えた部分には、銀の筆跡と思しき丁寧な文章のかけはしがみえた。銀が書く文に違いない、この御所の中で彼のように都めいた文を書く者はまたといないのだ。生憎と学のない私には、その限定された達筆が何を意図するのかは皆目検討がつかなかった。泰衡さまは私が読み書きに不自由なのを知っているから、特別その書簡を私の目から遠ざけようともしなかった。そしてそれについて私に言及することもないと、私は知っている。
「油が尽きたので、取りに」
 私はしっとりと汗ばんだ自分の体を急に恥ずかしくおもって、顔を俯かせた。泰衡さまは私のほうを一瞥して、笑うでもなく眉をしかめるでもなく、少し不思議な生き物をみるようにこちらを再び見た。
「お前も、この一件で眠れないと見える」
 泰衡さまはそう言って、私から手に持つ書簡へと目を移した。この一件。平治の乱に破れた際に秀衡さまが匿った源義朝殿の子、九郎義経がなんの因果が巡ってか、同じ血を分つ兄頼朝殿に追われて逃げていること。逃げ惑う彼ら一行を連れてくるようにと、泰衡さまが銀に命じられたこと。私が知っているのはそこまでだけれど、銀からの書簡を持つ泰衡さまの瞳のきびしさは、九郎一行が見つかったからなのだろうと、私は思った。俄然、まるで初恋の人が帰ってくるように思われた。
「九郎が、帰ってくるのですか」
 両手を話して喜ぶ勢いの私を、泰衡さまの苦笑が覆う。
「…...これからは、九郎さま、とでもお呼びしてやれ」
 九郎、さま。私はその響きを心の中で反芻する。それはとてもおかしな響きで、私の中を気持ち悪くかけめぐった。
 私の母は私を産んですぐ、秀衡さまに囲われてその生涯をまっとうした。特別秀衡さまと血が通っているわけでもない私は、彼の懇意で泰衡さまと同じように、あるいは女であるがゆえにそれ以上に娘のように大切に育てられた。それだけが私の誇りであり拠り所でもあった。母の死後も、秀衡さまの私への扱いは何もかわらなかった。かわったことと言えば、御所の内のひとびとの私を見る目と、この、泰衡さまくらいだった。泰衡さまは母の死以来、私になにかを気兼ねなく話しかけてくるということがなくなった。こちらから何か話題をさがして話しかけにいっても、あるときは用があると馬をかけてどこかへ行き、あるときは部 屋の中へすら入れてくれようとはしなかった。そうして私が何もかも拠り所を無くして世界の滅亡のような淵にいたとき、京から遠路をはるばると九郎はやってきた。秀衡さまは九郎のことを御曹司と呼んでたいそう可愛がり、わたしたち二人は、ほんものの兄弟のようにつかの間を過ごした。
 その九郎が、とても幸せな形とはいえないけれど、この奥州の地に帰ってくる。季節はめぐってもうすぐ秋になる。秋の美しい奥州を、わずかではあっても共に幼少を過ごした彼と、また駆け回ることができるかもしれない。元服ももうとっくに済ませた彼は、私とまたあの頃のようにかわらず、無邪気に遊んでくれるだろうか。
「九郎は、源氏の神子とやらと共に来るそうだ」
 泰衡さまは苦笑を苦にも思わない私の頭上から静かに、そう言った。私は源氏の神子という言葉を何かたっといもののように、ゆっくりと呟く。まるで母親に 言葉を教えられる幼子のようだ、思って少し恥ずかしくなる。泰衡さまを前にしたときの私の稚拙さに、あるいは彼の背の高さに、私はいつも自分の世界が一歩下がるのを感じる。
 私たちのほか人気のない渡殿からは何の物音もしない。庭から聞こえる雨音と、嗄れた蛙の声さえなければ、私と泰衡さまはこの静寂に飲み込まれてしまうだろうと思った。いつからか私と泰衡さまの間にできた距離と沈黙。会話を苦痛だと感じるのは、今も昔も泰衡さまと話しているときだけだ。
「俺たちとは違う、異なった世界から来た、龍神の加護をその身に受けた女らしい。くれぐれも、丁重にするように」
 泰衡さまの言う「俺たち」に、私は内包されているのだろうか。私にとっては泰衡さまのみている世界も、私とはまったく違う「異世界」のように感じてしまう。私が少しあとずさりする音に続いて、板目が小さくみしりと悲鳴をあげる音。薄明かりの下の泰衡さまの眉間を、何かとほうもないことにたいする憂慮がしたたかに刻んでいた。いつからだったろう、私が彼を泰衡さまと呼ぶようになったのは。
「……お前にするべき話でもなかった。今日はもう寝ろ」
 そう言って泰衡さまは中途半端に開かれた書簡をくるくると巻き直して、もう夜半過ぎだというのにいくばくか乱暴に踵を返して歩き始めた。泰衡さまが寝屋から遠ざかる背中をみて、柿の実に手が届かない私を肩車してくれた記憶を思い出す。いつからだっただろう。彼が1人でに歩き出してしまったのは。

 ざわざわと、どこか近くで虫が鳴くのを、泰衡さまの遠ざかって行く足音とともに聞いた。夏が私たちの沈黙を干渉する。秋はもう、すぐそこ。



奥州平泉への妄想がとまらない会長の宮田へ 20111203