ふじゆうなまたたきの模倣

 その日泰衡さまが珍しくこれといった用も無く出かけるというので、私は秋の深い街道を彼の後ろ姿をながめるように歩いていた。泰衡さまはこの日普段の黒染めの衣とは違った、浅葱の空の色のとけ込んだような軽装をしているので、私には彼が時々違った男性に見えるのだった。第一に彼は私の実の兄であるように思われた。それは過去に彼が血をめぐる不幸の中でどんなに無力であったか、かつて私に一度だけ弱音を吐いた事があったのだけれど、すると私はその彼の葛藤を一方的に空想し、しまいには私が彼本人であるかのようなあつかましい幻覚に陥ってしまうからだった。それと同じようにして私には彼が、時に私より年が一回りも離れた弟であるような気のすることもあった。生来血の繋がりはもとより、泰衡さまに繋がる縁者という縁者もいない浅ましい身の上の私は、どこまで図々しくなれば彼のこと実兄弟だと錯覚しうるというのだろう。しかし私は彼が実の兄であり弟でありえるような空間を、ふと気が緩んだ瞬間にいつも思い描いて止まないのだった。
 平泉では国を挙げた秋の収穫の宴が近い。人という人が出払った街道を歩くのは幸か不幸か泰衡さまと私をおいては、旅の途中の行商人と思われる数少ない人々のみだった。人の出払うこの時期だからこそ、彼はいつもとは違ったいでたちで、従者という従者も従えずにここにいるのだろう。私は普段雑務に追われる泰衡さまのせわしない姿を思い浮かべた。今この瞬間だけは彼を縛るものはなにもないように思われた。
 人気の無い民家の軒には、熟れてはりさけそうな橙の色をした柿が吊るされていた。年季の入った障子を照らす日の弱さは冬だった。民家が軒をつらねる街道を抜けたところで泰衡さまの足は止まった。旅を続けるものなら誰しもが止まる眺めがそこには展開しているのだ。
 そこに横たわっているのは衣川の秋だった。黄金の花の咲く平泉の、美しい展望。春には満開の桜を咲かせる遠い山々へと続く谷が眼下で落合い、斜陽のうすぐらい明かりの下で日のまだ当たるところと陰とにわかたれている。夕日に晒しだされにわかに明るむのは秋という秋を染め出した山の木々だ。その木々を刻々と覆っている日陰は谷に死のような静寂を与えていた。
「もう柿がずいぶんと赤い時期だったのだな」
 泰衡さまが言った。連日御所で働き詰めの泰衡さまは、きっと、これからも季節のうつろいに普通の人よりも多少鈍感であるのだろう。
「山全体が柿の実のついた一本の木のようにみえます」
 私はいつもと大して変わらない、泰衡さまのその横顔をみながら言った。時々彼の横顔をみていると、私とは遠い次元に彼がいるようにみえてはりさけそうな気持ちになることがある。
 今日はどうしてか彼と同じ場所に立っているように感じられた。それは彼が普段とは違う召し物で、普段とは違う場所に、普段と何も変わらない見栄えのしない自分といるからかもしれない。こうして軽装の彼と肩を並べていると、私たちははたからみればなんの変哲もない夫婦に見えるのかもしれない。
「そうだな」 
 彼は目をふせて少し笑ったようにみえた。私は私のとんでもない空想に彼が頷いたように錯覚した。夫婦、という言葉は私たちの間にあまりにもあまりある非現実のものだ。
「この時期になると、いつも懐かしい気持ちになります」
 私は不自然に空いた間を塞ぐように慌ててそう言った。
 私たちの関係を何かが繋ぐのだったら、柿よりももっとなにか色気のある、例えば花の何かだったらよかったかもしれない。けれどもなぜか、私が彼と同じ場所にいるように思えるのは、いつだってこの柿が真っ赤に熟れる時期なのだ。私は私が心細くなってやりようのない気持ちになるとき、いつも九郎と泰衡さまと過ごした日々、それから泰衡さまと九郎がそれぞれ私のためにとってくれた柿のことを思い出す。
「お前は、昔からどうしてか柿が好きだったな」
 泰衡さまはとりとめのない衣川の流れを目で追っているように見えた。
「なんていったって、食べられますから」
 私がすかさずそう答えても、泰衡さまは先ほどのように目を伏せて笑うようなそぶりは見せなかった。
 私たちの立ち止まった道の横では、青々とした柚子の木がはやくもその実をのぞかせていた。それは黄金に似たはげしさで実をつける柿と比べて、夢から覚めるような冷たさで私の目を射った。そこは稲穂が刈り干されている平地で、収穫という収穫を終えた田園には空っ風がさみしく吹き抜けていた。ここは冬には枯芽が霜にうたれるだけの、いっそう殺風景な光景に変わるのだ。冬の平泉は死を運ぶ鎌のように冷たい。
 田園の先には山裾へと繋がる細い路が続いていた。あの路はやがてほの暗い森の中へと入っていく。山の奥には春に花見を、秋に紅葉狩りをするのにちょうどよく開けた平地がある。私は枯れ枝を腕いっぱいに抱えた娘と青年がその森から路へとさしかかるのを確認した。
「泰衡さまはあの路をご存知ですか」
 私はその細い路を指でさしながら泰衡さまのほうをみた。泰衡さまは少しけだるそうに私の指の先に続く小道を一瞥して、「知らぬな」とだけ言った。
「あの路は私も国衡さまも通ったことがあります」
 私は泰衡さまが感興を動かすかどうかを見ようとした。けれどもその目はなんの輝きもあらわなかった。
「つまり?」
 泰衡さまは少したたみかけるような口調で言った。
「春は桜が、秋には紅葉が美しいところなんです」
 そういえば私は泰衡さまが季節ごとの宴に参加する姿をみたことがなかった。兄の国衡さまの席の横はいつも、ちょうど人一人分の空きがあった。私が物心ついたときから、泰衡さまは公の政のほかは、例えば国衡さまや秀衡さま、それから九郎の突飛な思いつきで行われる宴には参加したことがないようだった。今日のように力を抜いて平泉の四季を目の当たりにすることが、彼にはそうそうないのだ。そしておそらく、その景色を賞賛し感嘆しあえる誰かとも、泰衡さまはまだ出会っていない。私は形容のつかない不思議な情熱が私の胸を圧倒しているのを感じながら、じっとその路に見入っていた。私にはあの路が、泰衡さまの感情を露呈してくれる唯一の路に思えた。突然、私は泰衡さまに向かって言った。
「あの路より先へ行きませんか」
 気でも触れたと思われたかもしれない。泰衡さまが、私にもわかるくらいに眉をよせて怪訝そうにしたのがわかった。枯れ枝を抱えた娘と青年はもうその路を歩ききって、田園の奥にたたずむ一つの民家の方向へと足を伸ばしていた。
「日が沈みきるまえには帰るぞ」
 そう言うと泰衡さまは、その路へと向かって一人で歩き出した。私は慌ててついていく。路は遠目でみたより広く、彼の後ろを歩くのも不自然に思えた。そうして私は泰衡さまと肩を並べて、街道のいまいたところから山のほうへ歩をうつした。もしも私たちの背中を確認した誰かが、この時だけは私たちを夫婦だと錯覚すればいい。とんでもないことを考えて、私の歩くはやさは少しだけ加速した。





04/24/2013