※榾火の宮田に書いてもらった九郎です

 灰色の庭に潰れた柿が落ちる。熟れすぎてぐずぐずになった黒い実だ。
 昨日、国衡さまが撓むほど実った柿の木をごらんになって、今年の柿はもうだめだなと仰った。清澄な冬晴れの日。燥いた空気が軒先を吹き抜け葉の落ちきった枝をわんわんと揺らした。もうだめだな。私は国衡さまの言葉を反芻する。そこへ茶色い尾を持つ鳥がふいに降りたった。辺りを見回し、それから透った声でひとこえ啼くと赤い舌で実をついばんだ。私は「だめ」だと言われた柿の木をみて、そうだろうか、と思っていた。
 屋敷はいつになく忙しなかった。九郎の出立の日が迫っていたからだ。のんびりと庭木を眺める国衡さまにつかまりはしたが私もそのために駆り出されていた途であった。私は寒さに首をすくめる。そうしてまた柿の木のことを考える。
 国衡さまは鷹揚にほほえむと俯いた私の髪を撫ぜた。大きくて分厚いてのひらだ。私はとがらせた口唇をつつと引っ込ませる。そうした一連の仕草を国衡さまはからからした笑いかたで笑い、その声が庭中に響いた。寒い一日だった。抱えた行李が重たくて、しかもそれはおもむろに重たさを増しているように思われた。九郎、と私は口の中だけでその音を転がしてみる。呼びなれたいとしい名がにわかに奇妙な不和をまとって打つかった。九郎。

 鎌倉にある九郎の兄君のことは秀衡さまがよく聞かせてくれた。とはいえ秀衡さまとてあの方をよく知っているというわけでもないらしかった。頼朝さまと九郎とは九郎がこの地へやってきたあの日より昔に隔たって、兄弟は今日までずっと遠かったのだ。
 秀衡さまや、鞍馬のお山の人等が話してくれたらしい義朝さまの武勇、常盤さまのおうつくしさや頼朝さまの明哲を九郎は我がことのように誇らしげに語った。それを聞かされることが私は好きだった。そうして声を高くする九郎は夢見るように耀いていて、私たちはとても近いところにいるのだと思い知ることができたから。出自も身体もいやしい私が九郎とあこがれをともにするとき、その親しさは私に異様なやすらぎを与えてくれた。
 私たちは同じだった。閉ざされた道の奥の奥で夢ばかり見る灰色ののけものだった。獣だった。
 けれど。

「こんな所にいたのか」
「九郎、」
 お前をさがしていたのだ、と九郎は言った。庭に出てぼんやりと柿の木を見上げていた私を見つけて九郎はどことなくうれしそうだった。
「どうして」
「お前と柿を食べようと思って」
 九郎は屈託なく笑った。
「……柿はもうだめだよ。熟れすぎて、ぐずぐずになってしまったから」
「そうなる前にとっておいたものがある。さあ、来い」
 縁の上から差し伸べられた手を取ることを私はためらった。その広い手のうえに私ののぞみなど載せられてはいないと思った。
 この奥州へやってきたばかりのころ、九郎は冬の風に耐えきれなくて手のひらのあちこちを割れさせていた。罅入ったところから燥いた血をのぞかせてそれはひどいありさまだった。剣を握るのも、それどころか箸を握るのもつらそうに見えた。大丈夫かと気遣われた秀衡さまに、大事ありませんと告げたその声はあいらしかった。そうして春になりつるりと綺麗になった手のひらを見たときの九郎のほっとした顔を忘れることができない。確かな武のものの血を引く子供の、それは心からの安堵だった。
「さあ、」
 痺れを切らせて九郎は差し出した手のひらを小さく波打たせた。私の手を待ってくれている。私はおずおずと、かさついた手を持ち上げる。

「美味いな」
「ん」
 私ののぞみは何だったろう。九郎ののぞみは、何だったろう。
 いま。九郎のおもてにはあの日の安堵がぬるく広がっている。冬に馴れ、硬くなった手の皮を私に衒う。緋く深かった溝はもはやその上のいずこにも見つからず、庭の柿はただ朽ちて落ちた。
「どうした」
 立てた膝に顔をうずめる泣き方は女らしくないと咎められてやめた。今はもう泣くことだってないのだ。だからどうした、だなんて、九郎に問われるとどうしたらいいかわからなくなる。そうだ、気付かぬうちに、私たちはこんなにも隔たり、違っていた。
「ううん。はやく食べちゃおう、九郎。もう日がないんだから仕度を終わらせなくちゃ」
「……ああ、」
 つぶれた橙の実。もうだめだな、という国衡さまの声。羽休めの鳥。啄む舌。ともに憬れた庭、九郎がいたこと。またいなくなること。

 その、轟き。